これまでの経歴について簡単に教えてください。
生まれは広島ですが、父が商社マンで小学校時代は台湾で過ごし、そして戦争が勃発し終戦と同時に日本に引き上げてきました。中学は北海道小樽の菁薗中学、高校は横浜のY校と移動、しかし結核で2年間入院し、その時に運命的な出会いがあり、その影響で青春期の1962年ワーゲンで5年間の世界一周旅行に。日本に帰り集英社の週刊プレイボーイの記者、1980年から90年まではロサンゼルス支局員。1990年帰国後現在勤務中のカラオケの第一興商に入社、多少英語ができて、海外経験が長いということで9年前にグアムにある同社の保養所イナラハンガーデンハウス総支配人に異動になり現在に至ります。
イナラハンガーデンハウス(IGH)は昨年創設20周年を迎えましたね。
はい、IGHは5,000坪の敷地に3階建ての宿泊施設、プール、レストランがあります。第一興商グループ社員3,000名の保養所というより立派なホテルです。仕事上真夜中遅くまで働いている営業マンに、陽のあたる島での3泊4日の社員旅行でリフレッシュしてもらい、職場に戻ったら連帯感を高め、スキルアップして欲しいと願う創業者保志忠彦(現会長兼社長)の考えで建てられました。社員から「毎年グアムの保養所に来るのが楽しみで会社で働いています」と言う声を聞くと、ますますがんばろうと思います。3泊4日の滞在でエネルギーを充電し、日本に戻り会社のため、家族のため、そしてご自身のために活かされれば、仕事冥利に尽きます。毎年皆さん日本が寒くなる頃、渡り鳥のようにグアムにやってきますが、社員の笑顔が見られる時が一番幸せです。
職場はどのような雰囲気ですか?
3階建ての施設には従業員20名、うち日本人は私と伊藤副支配人だけの、まさに「チャモロ王国」。赴任してきた頃は国民性の違い、チャモロ文化との生活習慣の違い、頭の配線回路の違いでよくショートしてトラブルもありました。しかしその要因には長い歴史観などもあり、良し悪しは簡単に判断できません。今でも日々勉強だと思っています。
世界一周のお話ですが、高校時代の療養生活が人生の機転になったそうですね。
そうですね、今年古希を迎えましたが、人生70年の節目節目に大切な出会いがありました。17才の時に結核を患い、東京の北里病院に入院していた時に、「東京ーロンドン5万キロ」を連載していた辻豊特派員が同じ病棟に入院してきたのです。当時話題の人で、有楽町にあった朝日新聞東京本社に凱旋した時は黒山の人が迎えました。いつも半パンツにスニーカーのダンディな方で私が顔を見せると『坊や、坊や』と可愛がってくれて、いつも旅の話を熱っぽく語ってくれました。その時に私も早く病気を治して、辻さんと同じように車で日本を飛び出すことを決意しました。しかし1960年当時は海外旅行が自由化になっておらず制約も多く、行くと決めたがいいがお金もなければコネもない、学生の身にとっては所詮夢物語でした。
その後何かきっかけがあったのですね。
1961年、その頃父は日本石油(現新日本石油)の販売課に勤務していました。ある夜ほろ酔い機嫌で帰宅してきて「豊、今日会社へ変な外人がやってきた。車で日本一周したいというので、ガソリンを無料でプレゼントしてあげたよ。ベルギー国から来たマイケルという人だ。明日から日本一周を始めるそうだ。どうだ、日光まで案内してやったら」。日光までの案内のはずが、彼の気の良さと自動車旅行の魅力にひかれて、私は日光に着いても車を降りず、そのまま北海道、裏日本、四国、九州ととうとう日本一周をしてしまいました。当時の日本の道路事情はアスファルトは都心だけで、地方に行くと道はでこぼこ。特に道路標識はほとんどなく、とてもマイケル一人では無理な道路状況でした。4ヶ月間の日本一周で彼ともすっかり友達になり、世界一周の隊員として採用されました。日光の道が世界の道へ通じたのです。
いよいよ出発ですね。
横浜港から1962年6月に出航、北アメリカ大陸、中米、南アメリカ大陸…リオデジャネイロから南アフリカのケープタウンへ、アフリカ大陸を限りなく走破。この冒険旅行の最大の難所であるサハラ砂漠を2ヶ月間かけてフランス、スペインの外人部隊に助けてもらいながら北アフリカのモロッコにたどり着いたのでした。アフリカ大陸ではマラリヤ、赤痢、デング熱を患い、あの世の手前まで何度も往復しました。医者にかかるお金もなかったので、相棒のマイケルがベルギー軍で習った荒療法で治してくれました。ベルギー国でマイケルと分かれ、カブト虫ビートルに乗り一人旅、ヨーロッパ、中近東、アジア大陸をひたすら日本に向かって走りました。終わってみると世界110カ国、4年7ヶ月、30万キロの世界最長自動車旅行記録を樹立していました。使用したガソリン40トン、破壊したエンジン2基、すりつぶしたタイヤ38本、パスポートも1冊では足りず4冊使用しました。
費用はどう工面したのですか?
世界中の王様、大統領、企業にスポンサーになってくださいと3,000通以上のダイレクトメールを書きました。当時は車で世界一周する人は珍しく、多くの王様、大統領が賛同してくれました。パキスタンのアユブカーン大統領、ヨルダンのフセイン国王、シリアのカシム将軍、リビア政府、エジプトのナセル大統領などが「元気にやってこい!」とポンと金一封を下さいました。日本サイドは世界の船の航路は大阪商船(現商船三井)、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのあった日本航空、テープレコーダーで既に世界中にその名が知れ渡っていた赤井電機、ブリジストン、酒の大関酒造、NHKなどが協賛してくれました。1962年当時はアジアで初のオリンピックの開催を前に日本は盛り上がっていました。当時の東京都の東竜太郎知事も「東京オリンピックを宣伝してこい」と都民代表として親善メッセ-ジを携え、各国の知事とも会いました。道中は1日1ドルの生活でしたが、見るもの、聞くもの、触れるもの全てが新鮮に感じ、毎日がワンダーランドでした。
もう一度世界一周に挑戦したいそうですね!
はい、でも道はかなり良くなったとはいえ、昔のような旅は無理でしょう。今度のチャレンジは、世界中を旅しながら各地に埋もれている素晴らしい音楽を発掘して、世の中に紹介できたらと考えています。世界中にはそれぞれの地域に長く伝わる、独自の素晴らしい音楽があります。第一興商のカラオケシステムを持ってまわりたいですね。それから先日、自分のこれまでの人生を総括した集大成の本を書きました。70年を振り返りながら「俺はここにいるぞ!」という気持ちで執筆しました。もうすぐ完成しますので、興味がある方はお知らせ下さい。
グアムを訪れている観光客の皆さんに一言お願いします。
多くの観光客がグアムを訪れますが、その多くは半径1キロほどのホテル街に滞在しショッピングや日本語の通じるレストランで食べて終わりです。ぜひ南部にも足を伸ばしてください。そしてジャングルに入りあなただけの空気を吸ってください。誰もいないビーチで泳いでください。そして大自然の「琴線」に触れてください。私は南部に住んでいます。朝6時30分に仕事場のイナラハンで日の出を拝み、夕にはねぐらのアガット村に戻り、ベランダでギラギラ輝いて地平線に沈む夕日を拝みます。運が良かったら夕日が地平線に落ちる瞬間『ピカーッ」と輝き赤い夕日がグリーン色に変化します。「グリーンフラッシュ」です。これを見た人は幸せになるとチャモロ人は言います。ぜひ南部でお会いしましょう。
最後に冒険旅行の開拓者の一人として、若い人にアドバイスをお願いします。
全ての人には生まれてきた理由と才能があります。早く自分の才能を見つけて、目標に向かってひたすら努力してください。それからパワーの源は感動です。どうか感動、感激してください。感動とは感じて動くことです。江戸のイロハカルタにもありますように「犬も歩けば棒に当たる」、きっといい出会いがあります。また、長い海外生活で思ったことは、日本人はとても優秀だということです。ぜひ自信と誇りを持って、「世界で一旗揚げて故郷に錦を飾る」つもりでがんばってください。